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転ぶことも、起き上がることも、人生の一部


ルカ22:61-62 主が振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、「きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしを知らないと言う」と言われた主のおことばを思い出した。彼は、外に出て、激しく泣いた。


高校生の頃の話です。通学のために雪がちらつく寒い朝に自転車に乗りました。当時の私は思春期真っただ中で、整髪料で髪の毛をガチガチに固めて、腰ばきの制服ズボンの上に流行りのダウンジャケットを纏い、ダルそうな顔をキメながら自転車を走らせました。

 

ちょっと行くと私の前には大勢の中学生が歩いていたのですが、私は彼らの横を通り過ぎるその瞬間に、凍っていた地面にタイヤを滑らせ盛大にスッ転んでしまいました。中学生たちは突然目の前で大転倒をかまし、地面で痛みに悶絶しているヤンキー風の高校生をどうしていいか分からず、ただただ不安な目を泳がせなながら静かに横を通り過ぎていきました。わたしにとってその出来事はしばらく気持ちがふさぎ込むぐらい恥ずかしい体験でした。

私たちは誰でも転ぶことがあります。それは信仰の歩みにおいても同じです。ペテロが愛するイエス様に対して「死んでもついて行く」と宣言していたのにも関わらず、数時間後には「あんな男は知らない。」と言ってしまったように、信仰の歩みにおいて転ぶことはあるのです。


ジョン・ヒューレットは人生の転倒についてこう語ります。

バーンアウトや間違った決定、あるいは人間関係の問題だとしても、痛みを伴う挫折はミニストリーの歩みの中で現実的に起こるものです。もし転倒から学ぶことをしなければさらに大きな問題へと発展していきます。転ぶことは人生の一部であるということを受け入れる必要があるのです。(牧師のレジリエンス p141)

 

 転ぶこと自体は避けられないことですが、ヒューレット師が語る通り「転ぶことは人生の一部」という理解が大切です。イエス様がペテロに先立って「あなたはわたしを知らないと言う」と教えて下さっていたように、転倒も私の人生の中に織り込まれ済みなのだと受け止めていく必要があります。そうでないと、私たちは転んだこと自体を「人生の終末」のように捉えて恥や痛みの中に埋没していってしまいます。


また、私たちの人生に転ぶことが織り込み済みなように、立ち上がることもまた人生の中にすでに織り込まれています。イエス様はペテロに対して転ぶことを語られたのと同時に回復も語られました。ルカ22:31-32 シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

 

 転倒がどんなに大きな痛みや問題であっても、倒れるとき私たちの信仰がなくならないように主が心を配っていて下さいます。そして、「あなたは、立ち直ったら、…」とあるように、主の目には先立って、転倒から立ち上がって新しく歩み始めている私たちの姿が映っているのです。


世の中では転んだ人が倒れたままということはあるでしょう。でも、復活の主の恵みの内にある人たちは必ずもう一度立ち上がるのです。「転ぶことも、起き上がることも人生の一部」これこそ、私達が受け止めるべき人生の真理だと思います。

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