20代前半の頃、TVニュースでとても未来的な車が紹介されていました。運転手は必要なく自動運転、タイヤは90°に可動し真横移動しながら駐車できるという代物でした。私はその画期的な車体と機能に度肝を抜かれましたが、よくよくその話を聞いていると単なるコンセプトカーの紹介でした。
つまり、実用化されていない夢の車でした。どんなに素晴らしいモノも概念だけなら単なる良いアイディアにしか過ぎません。概念は大切ですが重要なことは現実性があるかどうかです。
教会にも同じことが言えます。聖書が語る教会は聖霊にある喜び、力、愛、癒し、慰めに満たされた素晴らしいものですが、現実性がければそのような教会は「絵に描いた餅」にしか過ぎません。もちろん、聖書に示されている教会は単なる概念ではなく実際に体験できる現実性を持っています。
では私たちが「教会を体験する」にはどうしたらよいのでしょうか?そのカギは「参加」にあります。
前回書いたように教会は現実に存在するために「キリストの体」として組織や形を構成することが大切なのですが、実際にその「体」を構成する各器官とは私たちひとり一人のことを指します。「あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。コリントⅠ12:27」とある通りです。
そして、単純なことですが一つの器官が「体」になるためには体に繋がる必要があります。手が体から離れて手だけで命を得ることが出来ないのと同じで、各器官は体と実際に繋がる必要があるのです。繋がりがないなら器官には血液や酸素は運ばれず「命」を得ることはできません。
つまり、私たちが、本来教会が持っているはずの「キリストの命」を現実に体験したければ、私たちは教会に参加する必要があるのです。参加とは教会の名簿に名前を連ねることではありません。実際に生きた関係を持つ必要があるのです。体が有機的な繋がりを持っているように、一緒に礼拝を共にし、交わり中で祈り、ともに力を合わせて奉仕をし、共に生きる必要があります。
教会の現実性:リアリティーのカギは体に「参加」するという単純な本質の中にあります。
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