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「キリストの体」としての教会:適応可能な構造

「7つの本質」では健全な教会の体質に「適応可能な構造」という質を挙げています。簡単に言えば、状況に合わせて自分達の体の在り方を変えることの出来る柔軟性のことです。


日本の教会は、戦時中に国の雰囲気と圧力の中で礼拝の中に天皇崇拝を持ち込んでしまった痛い失敗の歴史がありますので、一部の日本の教会は柔軟性・適応という言葉に潜在的アレルギーがあるかもしれません。また、現在の多くの教会は、戦後に宣教師や牧師、熱心な信徒たちが大変な苦労と戦いの末に信仰によって建てあげられてきた教会です。その信仰の歩みによって積み上げられてきたものを新しいものに変えていくことは危険なことではないという気持ちもあるかもしれません。


それでもなお柔軟性・適応力は教会にとっては無くてはならない重要な体質なのです。その理由はイエス様が「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れなければなりません。ルカ5:38」と教えられたからです。つまり、聖霊が新しい働きをなされるとき、それを受け止める教会は新しい革袋(考え方、生活の在り方、組織の在り方)を準備して行かなければならないと語られたのです。


旧新約聖書をみると聖霊はどの時代においても働いておられますが、重要な点は時代において働き方が違うことです。例えば、ダビデとソロモンの時代には聖霊はイスラエルを繁栄されるという形で働かれましたが、エレミヤの時代には同じ聖霊がイスラエルを亡ぼすという働きをなされました。どちらも大きな視点で見ると聖霊はイスラエルのために働かれているのですが、働きの性質としては正反対の働きなのです。


このように「風は思いのまま吹く」という御言葉の通り、時代、状況によって聖霊は私達の思いや常識を超えて働かれるのです。ですので、私たちに必要な信仰とは聖霊が新しい働きをされたとき、私たちはその働きに合わせて慣れ親しんだ在り方や方法を手放し、新しい革袋となっていく必要があるのです。


コロナ禍は世界を揺るがし、教会を揺るがしました。この時代に聖霊は教会を閉じ、慣れ親しんだ礼拝の在り方を閉じられました。今まさに教会は主の言葉に従って革袋を新しくしていく必要があります。

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